大雁塔は西安の旧市街地から南方3kmほどの場所に位置し、西安のシンボル的印象を与える塔である。
大雁塔は別名大慈恩寺塔と呼ばれる。
創建は唐代の西暦652年で高僧玄奘法師がインドから持ち帰った仏像を納めるために当時の唐朝の王高宗に許可を得てこの塔を作ったといわれ、創建当初は5層の塔であったが、その後西暦700年ごろに現在の7層へ改築されたとされる。
この玄奘法師とはあの西遊記に出てくる三蔵法師のことで、「三蔵法師」という名称そのものは仏教に精通した僧を指す意味だが、この玄奘法師が一番有名である。
652年というと、つまり市内の鐘楼や鼓楼に比べてもさらに700年も昔からここに塔があったことになり、日本では大化の改新直後の飛鳥時代にあたる。
確かに鐘楼などに比べると外観的にはのっぺりというか単純な構造で、時代的に古いものであることは感じるが、それが700年といわれるとやはり中国の歴史の奥行きの深さを改めて感じてしまう。
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日本のお城の天守閣のようにも見える |
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南側から大雁塔を望む |
しかも日本の飛鳥時代となれば、この頃に行われた遣唐使などの使節たちはやはり当時のこの塔を実際目の当たりにしたかもしれない。
後に造営される藤原京や平城京、平安京などの日本の都はこの時代の唐の都「長安」がモデルになっているとされており、そうとなれば恐らくこの塔を見たであろう人間がその日本の古都設計のアイデアを出したと考えるのが自然である。
つまり少し大げさに言えばここを源流として日本の歴史がその後延々と築かれ流れて現代の日本へ繋がっており、その終着点として今ここに私達の生きる日本の社会があるのである。
その間実に江戸時代の5倍にもなる歴史が流れている。
そして1300年以上も歴史を経た後の日本人の子孫である自分がまたこの塔を見に来ている。そう思うと再び日本人である我々がこの塔を目にしていることになんとなく不思議な縁を感じ、遠い自分の故郷を見にきたような気分にもなる。そこが日本人の多くが西安に惹かれる理由の一つかも知れないという気がする。
現在の塔の北側にはサッカーグランドにも匹敵するような、大きな噴水池のある広場が塔から旧市街方向に向かって傾斜状に広がり市民や観光客の憩いの場となっている。この噴水は2003年に設置されたもので音楽に合せてパフォーマンスが行われ、何でもアジア最大の音楽噴水と称されているとのこと。
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市民がまったり過ごす空間 |
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噴水池は歩いて渡れる |
また旧市街側の入り口にはお寺の敷地であることを示す門が立っているのだが、この噴水のある大慈恩寺北広場はどちらかと言えば西洋式の公園の様相を呈していて、門自体が塔からも遠く離れていることもあって、この門だけ単独でポツンと浮いているよう印象を受ける。
そしてこの門付近からこの塔を眺めると西洋的な噴水の奥に塔が聳えて見える構図になっており、1300年前の歴史的な塔と現代の噴水ショーと門の取り合わせという不思議な組み合わせがここに存在する。
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忽然と立つ門 |
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噴水の向こうに大雁塔 |
さて塔のある大慈恩寺の入り口は実はこの噴水の反対側の南側にある。
南側の入り口に出るにはお寺の敷地の東西にある道を歩いていかなかければならないのだが、道沿いには延々とこのお寺の高い壁が続き、そこに浅草の仲見世のようにお土産のような雑貨を売る店が立ち並ぶ。
そのラインナップは他の観光地のお土産物店と大きく変わるものでもないのだが、屋台の店構えが少しモダンといえばモダンであろうか?
またこの道沿いには幾つかの銅像が設置されており、モンゴル相撲なのか日本の相撲の原型なのか分からないが、確かに相撲だと思わせる銅像なども並んでいた。
歴史的に、そして現在の文化上の意味として、どうしてこの西安の大雁塔の脇にこの相撲の銅像があるのか、非常に興味が沸いたのだがそれを追求し始めると脇道にそれすぎてしまうので今回はちょっと深い掘り下げは諦めることにした。
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お土産屋が並ぶ |
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どう見ても相撲なのだが・・・ |
大慈恩寺の拝観料は50元。学生などは30元で70歳以上の方や無料のようだ。しかしこれはお寺の敷地に入るための費用であり、塔に登るにはさらに追加で30元が必要となる。観光地価格と言えばそれまでだが意外と高いものである。切符売り場は門のすぐ脇にある。
ただよく考えていれば、この大雁塔が1300年の歴史があるならばこのお寺自体も同様かそれ以上の深い歴史があるはずで、それだけで歴史的価値があり、拝観料がそれなりに高くなるのは致し方ないという気もする。実際に大慈恩寺の創建は大雁塔より少し古く648年である。
大慈恩寺の敷地に入ってみると中の庭は意外と広い。そして宝物殿的な建物があちらこちらに建てられ、玄宗が持ち帰ったとされる仏教の宝物が収蔵されている。
それらは壁画であり、木の彫刻、石の彫刻などである。
残念ながら、これらの宝物一つ一つについて勉強をしてその価値をつぶさにうかがい知ることは、ふらっと訪れた旅行者にとっては大変困難な作業ではあるが、インド仏教と中国仏教を結ぶ歴史的節点が確かにここに残されており、さらにここを文化の源流としてここから日本の歴史が流れていったかもしれないことを思えば、日本文化に面影を残してあるだろう原形をそこに探したくなる。
そう思うと、仏教の深い歴史を知らなくても収蔵されている宝物一つ一つが意外と愛おしく見えてくる。
この大慈恩寺とはそんな空間である。
そしてそんな大慈恩寺の内部に立つ大雁塔は、我々日本人から見ると中国の歴史的建築物というより、日本の歴史文化の一里塚的シンボルに見えてくる。かつて古代に砂漠を渡って都に敵の侵略を伝えた狼煙台のようにインドの文化を日本に伝えた中継塔のイメージが沸いてくる。
その外観を遠くから見ると、確かに日本の古城の天守閣を思わせるようなシルエットをそこに感じることが出来る。
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電波塔のようにも見える |
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日本庭園のような刈り込み? |
大雁塔の高さ64.5mで外観は塔身から四角錘の屋根と外枠を重ねたような7層構造で、塔の下部に向かって徐々に裾も各層の丈も高くなっている。
内部には階段があり最上部まで上ることができ、各層には仏像などが収められている。1階の入り口から塔は内部は層を登るにつれ段々と空間が狭くなり、最高層付近は非常に天井も低い。また各層の四方には門洞があり外部の風景を眺めることもできる。
最上階からは西安市内の景色が四方眺められるが、そんな足元の景色もさることながら、この塔に日本の文化の源流があったかもしれないという歴史を役割を考えると、つい見えるはずもない日本の方角を探し、その方角をじっと眺めて歴史的な流れを感じたくなってしまう。
そんな不思議な魅力を持つのがこの大雁塔である。
小雁塔の正式名称は荐福寺仏塔である。
西安市の南門の外側(南側)に立ち、こちらも大雁塔と並んで唐代長安の都の文化を残す貴重な建物でやはり現在の西安のシンボル的役割を果たす。
大雁塔とは直線で3kmしか離れておらず、大雁塔よりやや小ぶりであることから小雁塔の名で呼ばれる。
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見上げるとすらっとしている? |
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1300年分の歴史を感じる |
小雁塔の創建は大雁塔よりわずかに遅く、唐代の景龍の時代707年~710年の間に高僧義浄がインド天竺から、持ち帰った仏教の経典や仏図などを収めるために立てられたとされる。
大雁塔に比べるとこじんまりしており、裾野の広がり方も少ないことから現代のビルのようなに比較的すらっとまっすぐ伸びているなという印象も持つが、頂上付近が少しすぼみ加減であり、なんとなくタケノコにも似ていなくも無い気がする。
ところで周辺の観光開発程度の影響なのか、こちらの小雁塔は訪れる人が非常に少ない。
乗り付ける観光バスもなく、ぱらぱらと人が訪れるだけである。敷地内に西安博物院なども併設され観光客を引き付けるだけのアイテムは揃っているのと思うが、大雁塔に比べどうもいまひとつ人気が無い。
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人もまばらな入場門 |
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人影のない場所もある |
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西安博物院 |
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敷地全体が静か |
実は小雁塔はこの現在までの長い時代の間、地震などで何度も倒壊しそのたびに修復されてきた。
現在の塔の高さ43.395m、底基部は一辺11.38mの正方形で、やはり内部の各層は空洞になっており階段で登ることができる。また内部には柱が無く、塔芯に屋根が吊り下げられた構造をとっているようである。
創建当時は15層88mもあったとされる記述もある。
この塔は実は歴史を紐解くと、度重なる倒壊修復の歴史の繰り返しもさることながら、この1300年の間、大雁塔とは対照的に時代時代の歴史の荒波をもろにかぶってきたことがわかる。
特に近代の辛亥革命以降、たびたびその時々の権力者達の軍事拠点のひとつと利用され、本当に伝統あるお寺として大切にされ続けてきたのか疑問に思える状況も続いていた。
1961年にようやく重点文物(日本で言う文化財)に指定されたがその後の文革ではまた軍事拠点となり、最終的にそれらが全て撤退したのはごく最近の1989年になってからである。
そんな歴史的経過が観光拠点とのしての価値や観光客の数に影響しているのかどうかわからないが、この小雁塔を訪れる人はあまりなく、寺の拝観料も無料となっている。
ただ、この小雁塔は観光客の少ない分だけ静かでもあり、お寺の内部にいるという静寂感というか緊張感にある仏教的の空間の雰囲気も味わえる。ここのお寺の僧侶んあおかどうかよくわからなかったが、修行僧のような出で立ちの坊さんたちを何人も見かけ、その外観的雰囲気が中国というよりどこかインド仏教の雰囲気を携えている。 日本僧侶とはかなり雰囲気が違い、この場所は確かにかの場所がインド仏教と繋がっていた場所なのだということを感じる。
実はこの場所を訪れるまで、何故古代の中国の都が太平洋側の海岸沿いではなくこのような内陸部に存在していたのか非常に不思議に感じていた。
確かに黄河文明といわれるエリアにはこの西安地区つまり長安も含まれていたが、黄河流域という意味では決してここだけが地理的に特別な場所ではなく太平洋沿岸域近くまでその文明は広がっていた。にも関わらず、秦の始皇帝をなどを含めこのエリアに古代各王朝の中心地が置かれたのである。
何故この内陸の地に都が置かれたのかといえば、それはインド・西洋から文化が流れてきた到着点がこの場所だったという答えになる。
シルクロードと呼ばれる交易経路の中国側の基点がこの地域であり、ここへ中東やインド、ヨーロッパなどから仏教文化などが流れ着き、それらが歴代王朝それぞれの文化繁栄を支えていた。
つまり中国の文化源流は太平洋側ではなく西域にあったからこそ内陸部の長安が都として適地だったことになる。
しかしその後の中国の歴史では各王朝時代の文化がインド文化を必要としなくになるにつれ、この地が都である優位性を失い、やがて食料の豊かな洛陽や開封など東へ都が移っていったという歴史的経過をたどっている。
その都であった最後の時代「唐」のインドの名残りを残すのがこの小雁塔ということになる。
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長安が中国の都という地位を失った後でも、この塔がそのインド仏教的を雰囲気を残しながらこの地に残ってきたということは、この国が歴史王朝の変遷を経ながらもこのインド仏教の到来の地であったこの塔を大事にしてきたということになる。
いや、守り続けてきたというより何度も倒壊した歴史がありながらもそれを何度も修復再建してきたと言うことは、この塔に関わる人たちにとっては守り続けるより更に大きい苦労でこの塔に接して来たはずで、その先代だちの苦労の歴史の結果に今の小雁塔があるのだと思えば、単に古代の歴史的建築物という価値だけではこの塔を語れない気がする。
そういう意味では、それほど歴史的な洗礼をうけなかった大雁塔に比べこの小雁塔のほうがこの塔に関わる人々により大事にされ続けてきたということになるであろう。
現在の塔の屋上から見える西安の景色はすっかりと現代都市の風景になってしまったが、これらの周囲の風景からは、何となくこの塔に対する街からの愛情を感じるような印象にとらわれるから不思議である。 1000年の後もこの塔はまだ西安の人々に愛され続ける、そんな根拠のない確信を持たせてくれるこの小雁塔と周囲の景色である。
>次回は西安の城壁をお伝えします。
>前回の「鐘楼と鼓楼」はこちら
(2011年7月記)
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