エクスプロアグローブ TOPfeature偽満州国とその住人


「偽満州国とその住人 −長春観光ガイド− 」

●満州国

 1931年9月18日、瀋陽郊外の柳条湖付近で日本軍が自ら鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業とした満州事変(柳条湖事件、中国では9.18事件)が勃発する。この事件をきっかけに日本軍は国際的な孤立を深め、軍国主義的な侵略戦争の道を歩み始める。


 関東軍を中心とした日本軍は、わずか半年の間に瀋陽、遼陽、営口、長春、ハルピンなどの東北の主要都市を落とし、翌1932年10月に国際連盟による日本軍の中国撤退勧告が行われるが、日本軍はこれを不服とし、独立国家の建設を目指す。1933年2月軍閥による東北行政委員会は、国民党政府からの完全独立を宣言、3月には清朝最後の皇帝である溥儀(国家元首)を中心とした満州国を誕生させる。その首都を新京(現在の長春)とし、元号も民国から大同に改めた。


 満州国は、「共栄共存」、「五族共栄」などアジアを中心とした国家建国の理想(大東亜共栄圏設立)のもと、莫大な資金と数十万の移民をこの地に送り込む。この時代、東北の主要な街には、すべて日本領事館がおかれ、日本の役場のような役割を果たし開拓者の生活をサポートしていたが、過酷な自然状況や痩せた土地、更にすでに住んでいる漢族、満州族、モンゴル族などの激しい抵抗に計画は思うように進行しないまま、1945年8月14日を迎える。日本がポツダム宣言を受け入れると、関東軍は武装蜂起し、17日の国務院会議で満州国の解体を決議、18日に溥儀自ら満州国の解体と皇帝退位を宣言し、13年以上にわたる歴史に幕を閉じた。

 現在中国は、この事実を日本(関東軍)が行った傀儡政権による国家をニセ国家と認識し、偽満州国として語られている。


●「偽満州国帝宮舊址」

〈ルート概要〉

清朝最後の皇帝溥儀が、1932年から1945年まで13年間過ごした皇宮。満州国の国家元首としての溥儀と日本の関係の深さをうかがうことができる。 溥儀、故人を偲ぶものや正妻媛容のここでの生活ぶりが、蝋人形や遺品とともに展示されている。

緝熙楼従皇帝到公民展覧偽満皇宮遺物展覧→中和門→勤民楼
所要時間:1.0時間

〈データ〉S

アクセス:長春駅から車10分
開館時間:9:00−16:30 チケット販売は、15:50(5〜9月)、15:30(10〜4月)
入 館 料:20元/人


「緝熙楼」(しゅうきろう)

 溥儀と媛容(正妻)の居住区。東側が溥儀、西側が媛容の生活区となる。溥儀の生活区には、寝室や書斎、理髪室、中薬庫などがあり、北京の故宮と違い生活観があふれている。おしゃれ好きな溥儀は、外出や面会のつど、専属の理髪師に髪を整えてもらっていた。当時の使用されていたハサミや櫛が、当時の生活ぶりを伺わせる。

2階の書斎では、国家元首であるはずの溥儀と吉岡安直(関東軍高級参謀)が同室のソファーに腰掛け、同じ視線で話を相談している様子が蝋人形で再現されている(右:溥儀 左:安岡)。
この様子から当時、溥儀は満州国の皇帝としてではなく、日本の傀儡政権のシンボルとして利用されているのがわかる。


 西側は媛容の生活区となっており、巨大で立派な北京の故宮から天津、満州国の皇后として移り住んだ媛容の心情がよく再現されている。北京から移り住んだ媛容は、以前の生活レベルの差と自由の無い暮らしに、いつしか大量のアヘンを使用するようになる。この頃から親愛の夫である溥儀からも見放され、アヘンに唯一の救いを求めていた様子がうかがえる。媛容の最期もアヘンが原因で体を壊し亡くなっている。
(写真は、ソファーに横たわりアヘンを吸う媛容)

 一階には、溥儀や媛容の仲のよい北京や天津での生活ぶりや長春での西側・譚玉齢の様子が写真で展示されている。

▲戻る


溥儀と彼を取り巻く女性「譚玉齢」(たんぎょくれい)

 溥儀と彼を取り巻く女性の一人に譚玉齢(たんぎょくれい)という女性がいる。溥儀の西側であるが、もとは関東軍の最高参謀である吉岡安直が、溥儀の正妻、媛容がアヘンによって権力や政治からの興味を奪ったように、溥儀からも政治や政権の興味を無くそうと政略的に溥儀にとらせた西側である。最初、このことに薄々気づいていた溥儀はこれに興味を示さなかったが、しばらくすると溥儀自身から西側を考えてもいいと吉岡に連絡がある。溥儀は、候補者の写真の中から一番若い15歳の譚玉齢を指名する。これには誰もが驚いた。各候補者は写真の裏に自筆のPRを書いたが、その内容の幼稚さからも吉岡や側近の誰もが選ばれることはない女性だと思っていた。しかし逆に彼女の幼稚さが大人になりきれない溥儀の心に通じたに違いなかった。最初、溥儀は譚玉齢を大変可愛がった。ときどき強引な態度を取ることもあったが、気になるほどではなかった。しかし時間が経つにつれ、それはエスカレートしていった。彼は彼女の家族に対し、譚玉齢とその家族に21か条を作り、彼女と家族の直接のやり取りを禁止した。その後、ここでの生活について彼女自身がこんな風に語っている。
「家族の来宮はもちろん、家族の手紙すら受け取ることができない。私が家族への手紙を書いても彼は毎回それを確認し、生活ぶりや彼自身のことについては削除や書き直しを命じた。」

 また溥儀との関係についても「彼は子供のようなところがあった。機嫌がいい時は、"おばかさんね"など冗談を言っても怒らないが、一度機嫌を損ねると"自分を皇帝と呼べ"と激しい口調で叱咤した。ある時3+2=?というような簡単な算数の問題を彼に聞いたところ"6"と答えた。私はここで"不正解"と言って、彼が機嫌を損ねるのが怖くなり"正解"と答えた。彼は嬉しそうな顔をして更に質問をねだった。」こんな風に私は何時しか、彼の子守り役をしてここで生活するようになった。


「勤民楼」(きんみんろう)

 騎手帽子のような円形の独特屋根をもっている「勤民楼」、中には内庭を有しており、全体的に小さくできており、どことなく日本の明治時代の建築物に似ている。一階には、9.18事変(満州事変)の様子から731部隊(細菌部隊)や日本軍が中国でおこなった侵略の数々をパネル写真と遺留品を展示している。

 2階は、外国の使節に謁見した勤民殿や満州国の官史や外国使節に非公式に謁見した御学問所や宴会を行った(糸食)宴場(しょくえんじょう)などがある。

▲戻る


「従皇帝到公民展覧」

 清朝最後の皇帝から、満州国の国家元首、ソ連によるシベリア拘留などその波乱に満ちだ人生を遺留品や写真とともに展示している。展示室の最後に溥儀が一般市民として更正したことと中華人民共和国の建国について以下のように語っている。

「私の一生、皇帝になり一般市民にもなった。いろいろあったがまだ帰る家があるなんて、我ながらよくやっていると思う。私のような封建政治を行っていた人間を一般市民に改造するのは、決して易しいことではない。そんなどんな国もできないことを中国共産党はやってきたのだ。」

▲戻る


「偽満皇宮遺物展覧」

 溥儀の弟である、溥傑(ふけつ)とその妻(日本の貴族)の写真が飾られている。その他昭和天皇から送られた記念品の数々が展示されており、日本との関係の深さをうかがうことができる。



●「吉林省博物館」

 重厚な石造りの建物、1938年に完成し、当時は同徳殿と呼ばれた。

 館内には石器時代から清朝までの文物と各国の客人のために各国の建築様式を残した部屋が実に10余り用意されている。

なかには日本の書院造りを再現したものもあり、溥儀はここで日本からのお客と会っていた。

〈データ〉

アクセス:偽満州国帝宮舊址の隣
開館時間:9:00−16:30(チケット販売は16:00まで)
入 館 料:5元/人




長春のホテル予約はエクスプロア中国トラベルでどうぞ

[エクスプロアグローブ吉林省] [エクスプロア中国トラベル ホテル&航空券]


Copyright 1998-2001 Shanghai Explorer