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■永楽帝(1360〜1424年)

 明の第3代皇帝。5度のモンゴル遠征や大艦隊を率いてのヨーロッパ派遣など積極な外交政策で有名。軍事上守備が強固な北京の地形を気に入り、即位後都を南京から北京に移す。「周礼」に基づき、元の大都に再び皇帝が戻ってきたとして「紫禁城」の建築を指示する。



■康熙帝(1661〜1722年)

 清が最も栄えた時代の第4皇帝であった康煕帝。8歳で即位し14歳で親政を始めている。台湾、満州、モンゴル、朝鮮、ビルマ、シャム、ベトナムに至るまでを領土とし、清の版図を最大に広げた。領土拡大と内政を安泰させ、国家財政を潤した。康熙、雍正帝、乾隆というのは、清が最も栄えた時代であり、宮廷文化が花開いた。



■乾隆帝(1711〜1799年)

 清朝6代皇帝。イギリスを始めとしたヨーロッパの国々とタバコ、茶、絹製品、陶磁器などの貿易で多額の銀を中国にもたらし、安定した繁栄を誇った。在位60年間と期間も長くその間に境辺に10度出兵している。自らを「十全老人」と称し、台湾、モンゴル、新疆、チベットの支配権を確立して、ベトナム、ネパールの宗主国にもなった。



■西太后

 16歳で宮中入り。秀女として宮中に入る。父親が官史で小さいころから家庭教師につき、儒教の古典や歴史を一通り学んでいた。こうした教養と彼女の才能があいまって、咸豊帝の目にとまった。昇進して貴人、さらに嬪(ひん)になり男子を産んだ。さらに妃となり、貴妃となる。皇后、皇貴妃につぐ位である。宮中に入って僅か7年目であった。

 同治帝が20歳で亡くなるとまもなく未亡人であった皇后も死去した。一部には西太后が嫁(皇后)をいびり殺したとも言われている。同治帝には子がなかったため、西太后の妹(東太后)と結婚していた醇親王の子、徳宗(後の光緒帝)を立てる。光緒帝を立てるとすぐに西太后とともに「垂簾政治」を行ってきた東太后が死んだ。定説では西太后によって毒殺されたとも言われている。

 光緒帝が19歳になると西太后は政権を返還し、「清イ園」(「イ」はサンズイに猗)(現「イ和園」(「イ」は、巨にオオガイ))に移った。その後園の改修工事に着手、当時の中国海軍費用の三分の一を流用し、7年をかけイ和園を完成させた。

 形式的にせよ政権を返還された光緒帝は、国政の改革のために情熱を燃やした。新制度を次々に出し、さらに一歩進めて西太后を逮捕、監禁しようとしたが逆に察知され、イ和園内の玉瀾堂に監禁されてしまう。外部と接触できぬよう、窓も門もレンガで封鎖されたままである。光緒帝が38歳で死去した日の翌日、西太后もこの世を去った。噂では死が迫った西太后が帝を毒殺したといわれている。

 西太后に愛人がいた。李蓮英という宦官である。李は9歳にして宦官になり、最初は使い走りをしていたが、マッサージと美容術、美顔術で巧みに西太后に気に入られ、身辺に使えるようになった。西太后の独裁に貢献し、宦官としては異例の2品の位に昇進した。

 26歳から73歳で死ぬまで権力を手放さなかった。足掛け48年間、同治帝、光緒帝も、死ぬまで彼女に振り回された。



■溥儀

 2歳で清の皇帝「宣統帝」となる。辛亥革命によって清朝が滅亡したのが6歳の時。宮殿を追われ天津に住むが、その後に日本軍に利用されて満州国の皇帝となる。しかし太平洋戦争に敗れると今度はソ連軍に捕らえられシベリアに拘留される。時代に翻弄され自らの意思に関わらず流転を繰り返し、最後にその人生を終えたのは平民として過ごした北京である。
 映画「ラストエンペラー」は彼の生涯を綴ったもの。


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