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Root No.12
楊柳青
〜けよう編〜
・楊柳青の歴史
・楊柳青博物館
 (石家大院)
・楊柳青年画館
 (安氏祠堂)
みなさんこんにちは、けようです。今回のそぞろある記は夜逃げ先の某旅館よりお送りしています。身一つで家を飛び出してから早一月、思い残すことは何もありませんが、ただ、ただ、家に置き去りにしてきたとんぱ大王のことが気がかりで…ってこの私が夜逃げなんてするかい。前回このコーナーをとんぱ大王に任せてしまったばっかりに確定申告で夜逃げなどという根も葉もないことをでっちあげられてしまいましたが、夜逃げはしてません。逃避行です。28歳、微妙な年頃なもので。

さて今回は、前回とんぱ大王がご紹介した「楊柳青博物館」をもう一度、私けようの澄んだ目と清い心で見つめ直してみました。

楊柳青の歴史

楊柳青は天津市区(市街地)南西に隣接する青西区の中心の町で、市街地からおよそ14キロメートルの距離にあります。楊柳青の歴史は古く、誕生は1000年以上前まで遡ります。もともとこの辺りは陸棚だったそうですが、黄河が運ぶ大量の土砂によって徐々に陸地が形成され、宋代(960〜1279)に入る頃には、ここは東北を流れる子牙河の河口であったことから「流口(liu kou)」と呼ばれていました。やがて子牙河の両岸に柳が生い茂るようになり、同音の「柳口(liu kou)」と呼ばれるようになりました。そして元代末期から明代初期にかけて「柳口」は次第に「楊柳青」に変わってきたそうです。ちなみに『西遊記』の作者として知られる明代の作家・呉承恩(1500〜1582頃)も、≪泊楊柳青≫という詩を書き残しています。“村旗夸酒蓮花白,津鼓開帆楊柳青”

現在、楊柳青は天津の新しい観光スポットとして注目されており、楊柳青博物館一帯において観光商業施設の建設と交通整備が急ピッチで進められています。


建築中の楊柳青商業街


楊柳青商業街の横を流れる河

「人生なんて」

楊柳青博物館(石家大院)

楊柳青博物館は「石家大院」という建築物およびその内部の陳列の総称です。

石家大院は清末天津八大家の一つと謳われている富豪・石家一門の「尊美堂」の邸宅(1875年建造)です(「堂」には建物のほかに屋号という意味もあります)。石方程が興した石家は、清代中期(1736)、次代・石献廷の時に息子たちへ財産分与が行われました。献廷の5人の息子のうち長男は夭折しましたが、ほかの4人はそれぞれ家を興し、次男は「福善堂」、三男は「正廉堂」、四男は「天錫堂」、そして五男は「尊美堂」と屋号を定めました。次男・三男・四男の家が衰退していく一方で、五男の石宝コウ(王偏に行)が興した「尊美堂」は徐々に資産を増やし、孫の石元仕の代になって隆盛を極め、資産家としての社会的地位を確立しました。

しかし石元仕の死後、尊美堂は没落し、1948年には尊美堂の大部分の住宅が他人の手に渡ってしまいました。その後、改革開放下の87年、尊美堂は西青区人民政府によって保護されることが決定し、6年の歳月をかけて修復されました。92年には楊柳青博物館として一般市民に開放され、今日に至っています。総敷地面積7200平方メートル、部屋数278で、中国北部では最大規模を誇っている石家大院。保存状態も大変良好で、清代末期から民国時代初期にかけての風俗を色濃く伝えており、そのため現在は時代劇の撮影にも利用されているそうです。


石家大院の中央の庭


寝室。清末期の生活習慣が窺える


新婚夫婦の部屋を再現

ある部屋には清の乾隆年間に設立された「水局」=清代の民間消防組織
のポンプがそのままの姿で展示されています。


水局のポンプ。火災が発生した際に活躍した


当時の消火の風景。中央に赤いポンプが見える

またある部屋には清末期の町人の様子を伝える泥人形が陳列されています。
ここではそのほんの一部をご紹介。


易者


包子屋


大工

「勝ちか負けかのどっちかしかないんや」

楊柳青年画館(安氏祠堂)

続いては楊柳青年画館。こちらは楊柳青博物館の裏手の「安氏祠堂」という建物の中にあります。

そもそも年画とは春節(旧暦の新年)の時に家に飾るめでたい絵画のことで、“喜画”とも言われています。宋代に誕生し、以来、金・元・明各時代の手法を継承しながら清代に大成した年画は、この国を代表する伝統芸術の一つと言って差し支えないでしょう。中でも天津の楊柳青年画はとりわけ有名で、江蘇省の桃花塢、山東省のイ(さんずい偏に維)坊楊家埠、四川省の綿竹とともに、「中国四大年画」と謳われており、さらに天津の楊柳青年画と江蘇省の桃花塢年画は“南桃北柳”と賞賛されています。

楊柳青年画の歴史は明の崇禎年間に始まり、清の光緒帝の頃にはすでに芸術としての地位を確立していたと言われています。また、楊柳青年画の制作方法については、“半印半画”という独特の手法が用いられており、まず木版画で黒墨の下絵を刷り出し、さらに数回絵の具を使って重ね刷りし、それから筆を使って描いていきます。筆で色を塗る際も、2〜3回重ね塗りをしています。このようにたくさんの工程を経て完成される楊柳青年画は、仕上がりがとても繊細で、日本の浮世絵にも通ずるものがあります。実際に中国の某情報サイトには「中国の年画が日本の浮世絵に影響を与えた」とありました。真偽のほどは分かりませんので、興味のある方は調べてみてください。

また年画は、描かれるモチーフも豊富です。新年に飾る絵画なので、めでたいもの、吉祥なものという共通点はあるものの、閻魔大王のようなイカツイ表情の神様はじめ仙人、仙女、虎、亀、鶴…いろいろなものが描かれています。中でもとりわけよく使われているモチーフが子ども。それも普通の子どもではなくて、プクプクと太った大黒様みたいな子どもです。「千と千尋の神隠し」に坊(ぼう)という赤ちゃんが登場しますが、あれをもっと脳天気かつ腹黒くしたような感じです。

なぜそのような子どもを描くかというと、子どもは家庭円満の象徴であり、さらにそれがプクプクとしていることは裕福の象徴になるからです。そんな見るからに福々しい子どもが、真っ赤な魚を抱きかかえていたり、大きな牡丹の花に囲まれていたりしています。これについては前回トンパ大王が簡単に触れていたかと思いますが、改めてご説明しますと、中国語で“魚”は“余”と発音が同じことから余裕・裕福の象徴、また“牡丹”は別名“富貴花”とも呼ばれていることから富貴の象徴と考えられているのです。このように年画はめでたいことづくし、旅行のお土産や贈り物にぴったりです。ただ鬱の人には見せないほうがいいかもしれませんね…。


年画の制作風景


制作途中の年画。丁寧に塗り重ねられていく


おめでたいことづくし、“富貴有餘”

「ってハタチの中国人に説教されたけふこのごろ」

次回は「人民公園」を歩きます。
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Illust & Text by KEYOU... http://keyou.at.infoseek.co.jp/

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