2005 年 10 月、台湾の著名な作家、白先勇が千灯を訪れ、「とうとう昆曲の起源を見つけた!昆曲はここ、千灯で生まれたんだ」と興奮ぎみに話した。美しい調べの昆曲がここ、千灯という美しい土地で生まれたのは、なんら不思議なことではない。
千灯は江蘇省昆山市にある。長江デルタ地域において、東は上海、西は蘇州に接しており、太湖湖畔にある 2500 年の歴史をもつ水郷だ。
千灯は中国ではそれほど有名な水郷ではない。しかし非常に文化的価値の高い水郷である。千灯の住民、水上道路、石板街、千灯昆曲の「美」、そしてかつてここにあった「義」…どれも大変印象深い。
顧炎武:「天下興亡、匹夫有責」
保天下者。匹夫之賤。與有責焉耳矣。
「天下を保つ者は、匹夫の賤、与かって責め有るのみ。 」 |
「天下興亡、匹夫有責」これは中国の有名な故事成語で、知らない人はいないだろう。
意味は、「たとえ政治に関わっていなくても、国民一人一人が国家の栄枯盛衰に責任がある」というものだ。
この言葉は、中国歴史上有名な学者であり義士である顧炎武が残したもの。彼は千灯の出身だ。
顧炎武は先祖代々明朝の役人であり、彼の代になって、清兵が長江を渡り大挙して江南に侵攻してきたため、昆山地域住民と共に立ち向かい、二人の兄弟をこの戦いで亡くした。
清は建国後、優秀な人材を求めて顧炎武を何度も役人として迎えようとしたが、顧炎武はたとえ史書の編纂を頼まれても断る、と激しい口調で拒否した。
顧炎武は「読万巻書、行万里路」(「万巻の書を読み、万里の道を行く」)を地で行った人で、 20 年余りをかけて二頭の馬に山のような書籍を積んで、中国の北方各省を視察し、「天下郡国利病書」(各地の利点と弊害などの特徴を著した書)、「肇域志」(各地域の起源についての書)等の偉大な書籍を残した。
顧炎武の気性と業績は継母である王氏の教育の賜物である。未亡人であった王氏が顧家に嫁ぐ際、古くからの習慣守って「位牌を抱いて式を挙げ」、顧炎武の母親となった。王氏は大変孝行者だった。姑の病気が治らず、医者が人間の「指」を薬にすれば治る、と言い出したとき、自分の指を切り落としてそっと差し出し、姑に飲ませたところ、病気が本当に治ったという。あるいは王氏の誠意が神に通じたのかもしれない。
王氏は明朝滅亡後、自ら食を絶った。死後は「草葬」という最も簡易な方法で、明の復興後に葬るよう言い残した。王氏のこのエピソードは、今に至るまで千灯で言い伝えられている。
千灯にある顧炎武の旧居は「貽安堂」 という。五進式の明清建築、彫刻や絵画の施された梁や柱、レンガ造りの屋根は非常に精巧に作られており、芸術的価値の高い建物だ。
「演劇の祖」昆曲の創始者顧堅のふるさと
第一財経(CBN) :昆曲の真髄は何だと思われますか?
坂東玉三郎( 歌舞伎役者):二つあります。一つは幻想的な雰囲気、もう一つは美しい音楽です。昆曲は東洋人が夢見た世界を描いており、私はこの点に特に惹かれます。 |
2001 年 5 月、昆曲は UNESCO により「人類の口承及び無形文化遺産代表作」として認められた。中国そして東洋を代表する演劇のひとつとなった。
昆曲の創始者である顧堅もまた千灯の出身だ。元末明初の戯曲家であり、昆曲の祖である。自らを「風月散人」と称し、「陶真野集」、「風月散人楽府」などの著作がある。
その後、顧堅は千灯の文化を代表する一人と考えられるようになり、顧堅記念館を建立された。記念館は清代末民国初期の建物だ。
顧堅記念館に入るとすぐに、ここが「昆曲の祖」としての顧堅をテーマにしたものであると分かる。昆曲を中心に、各演劇の歴代の登場人物が展示され、中国戯曲の発展の様子がわかり、中国文化の深遠さを味わうことが出来る。顧堅記念館の一階では昆曲を聞いたり、 香茗 (茶の種類)を試飲したり、蘇州の「評弾」(蘇州の方言で歌う伝統芸能)を聞くことができる。
昆曲は千灯の人にとっては生活の一部となっている。この古い町並みを歩いていると、両側の古い家々から繊細な昆曲の調べが聞こえてきて、まさにここが「昆曲の村」であることを実感できる。千灯の学校では小学校から「昆曲課」があり、誰でも一曲は歌えるようだ。
「華東一の道」
千灯についたら、石板街(石畳の道)を歩いてみよう。ここは宋代から続く 1000 メートルに及ぶ石板街であり、現在まで保存されている中で最古にして最長。「華東一の道」という称号がある。
石板街は 2072 個の石が敷き詰められた細い通路。古い町の路地、両側の建物からひさしが突き出し、小さな建物がひしめき合い、「足元には石畳、線のように見える空」という江南の古都特有の風景を作り出している。
石板街に立って南側を一望すると、静かな町に、石畳が灰色の廊下のように伸びている。敷石が一つも欠けていない、それ自体が信じられないような話だ。石畳を踏んで、その下の水音に耳を傾ける。人は石の上を歩き、足元には水が流れている、これが水郷の水文化ではないだろうか。
敷石の大きさは幅約 50 センチ、一番狭いものでも 20 センチ、長いものでは 2 メートル近くある。通りは大変狭いため、両側に住む人たちは家から出ずに、反対側の家の人に物を手渡しできる。
「 中国一の質屋」
千灯には「余氏質屋」がきちんとした形で保存されている。ここは清末期、江南でもっとも規模が大きく有名な質屋だった。
CCTV 中央電子台が「徽商」(明~清にかけて安徽省付近に点在していた豪商組織)というドキュメンタリー番組を制作した際、全国の質屋を調査し、最後にこの千灯で見つけたのが「余氏質屋」であり、 2004 年当時の様子が撮影された。
「余氏質屋」は「徽商」の余尚徳が、清の順治年間( 1643-1661 )に建てたもの。大小含めて全部で 120 以上の部屋があり、広すぎて方向が分からなくなるため、千灯人から「迷楼」(迷路のような建物)と呼ばれた。質屋の三方には警備のため高い塀が立てられ、裏の「更楼」(時計台)は、定刻に拍子木や銅鑼を鳴らし、防犯や防火の役割も果たしていた。
余氏一家は、かつて千灯鎮三大商家といわれた「南顧、中余、北葉」の一つであり、代々「積善積徳」(善行を積むこと)、「忠、孝、仁、義」の教えを守り、商売の傍ら学問にも励み、多くの逸材を排出した。
「千灯館」
千灯は元の名を「千 墩(セントン)」 と言い、呉越の争い(春秋時代の呉越両国の覇権戦争)から来た名前だ。昆山南 30 キロにあった丘は 1000 番目の丘であり「千 墩」 の名がついたのだ。 墩 は昔の狼煙台で、狼煙の「灯り」が由来となって、 1966 年 4 月に正式に「千灯村」となったのだ。
村には「千灯館」があり、古代のランプを 1133 も展示している。それぞれの時代を反映して、材質や形が異なる。小石の上に雨水でできた溝を利用したのが最初のランプだ。また間にものをたくさん挟んで油を節約する灯り、そのほか陶製、ブロンズ、石油ランプ…ありとあらゆるランプがそろっている。筆者はここで中華民国時代に日本の鈴木によるガス自転車銅ランプや日本の赤ガラス製石油ランプを見つけた。

千灯鎮には他にも、世界で一番大きいミャンマー製の玉製臥像もある。これはギネスブックにも載っているものだ。また千灯のシンボル的な存在である秦峰塔は細長くそびえ、「美人塔」と言う愛称で親しまれている。千灯はまた江南楽器(江蘇、浙江、上海付近で流行した弦楽と管楽に用いられる楽器)の発祥地でもあり、陶淵明の子孫である第九代 陶峴が 創始者であるといわれている。
先人の文化、戯曲文化、宗教文化、商業文化、水郷文化、そしてランプの文化がここで融合している。歴史と文化と美しい風景が交じり合ってこの江南の町独特の魅力となっている。
(2009年10月記)