上海のルーツをたどる @
〜浦東新区高橋〜
彫刻は風化が激しいが、その豪華さは推測される。蔡氏民宅
一般に上海といえば、外灘や租界地の洋館建築群がイメージされるが、歴史が比較的浅いといわれる上海でも、ロマンあふれる中世の建築群が今でも残っている。国宝級のものでは無いが、我々の眼を十分に楽しませてくれる。
この上海のルーツをたどるシリーズでは、上海の喧騒から離れて、今でも街の隅に佇んでいる上海のもうひとつの姿をご紹介していく。
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石畳の通りがいい雰囲気を醸し出す
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第1回目に選んだのは浦東新区にある高橋鎮。なぜ高橋を選んだか、というのも実はここに100年の歴史を誇る「小吃店」があり、そこで出される羊肉ラーメンが面白いという話を聞いたからだ。そもそも10年ぐらい前にこの街にすむ親友を訪ねて高橋を訪れたことがあったが、その当時は古い建築物がたくさんありすぎて、あまり印象に残っていない。しかし、今は都市開発の波が押し寄せ、道路も拡張され、街の風貌が一気に変わってしまった。
高橋鎮は浦東新区の北側に位置する。ちょうど長江と黄浦江が交わるあたりで、あともう少し行けば外高橋保税区にたどり着く。陸家嘴からも路線バスが頻繁に走っている。この高橋と市中心部を結ぶ路線バスはかなり歴史があり、記録では1914年(民国3年)から走っているそうだ。さらに、1925年には浦東で始めての自動車用の道路、大同路が開通する。この道路の名前は今も残されている。
高橋鎮が形成されたのは明代から清代にいかけてといわれている。長江から流れてくる土砂で、高橋周辺は絶えず地形が変化している。老街ともいわれるエリアは面積210ヘクタールほどの小さな街だ。かつては、豊かな水産資源から、ウナギやスズキ、コイ、小エビなどの水産物が豊富に捕れたらしい。
1920年代には、イギリス商人やアメリカ商人により高橋沿岸に石油タンクが作られ、工業地としても発展してくる。そして1960年代には中国の石油コンビナートの中心地として発展してくる。90年代には外高橋保税区、外高橋港区が設立され、上海発展の象徴のひとつともいえよう。
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高橋に建設中の「オランダ村」住宅地。 風車があります
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現在、高橋は上海市の「一城九鎮」政策の元で、新しい都市計画が進められている。外高橋保税区以外にも、三岔港生態区、高橋都市農業区、高橋石油化学精細加工産業区などのエリアにわけ、それぞれの機能にあった整備が行われるほか、オランダの町並みを再現したエリアも現在建設中だった。
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西街はこれから整備の手がはいるとか
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上海市内にはいくつかの町並み保存地区が指定されているが、この高橋鎮もそのひとつで、「浦東新区高橋古鎮歴史文化風貌区」に指定されている。そのため、清代から民国時代の建築物が多く保存されている。そのほとんどが、保存というよりもまだ一般市民が住んでいるために、見学するには迷路のような路地を歩き回る必要がある。ただ、比較的集まっているので、散歩がてらに見つけるのも面白い。
(左)西街に保存工事が進む王氏民宅
(右)西街の路地を入っていくと、屋根の形がその邸宅のすごさを主張している
「老街」とよばれる旧市街地をはしる東街、西街、北街を中心に散策すればこれら建築物は比較的容易に見つかる。筆者もいろいろ歩いて回ったが、なかでも浦東新区の文化財として、北街に保存されている蔡氏邸宅は必見だ。今は、市民数世帯が住んでいるが、建物の彫刻といい、風格といい、往年の面影を強く残している。
(左)洗濯物がぶら下がっているが、木の彫刻は非常に美しい 蔡氏民宅
(右)いったい、その昔どんな人が住んでいたのだろうか?
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高橋中学の中にある永楽御碑
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文化財もいくつか残っている。王家街にある高橋中学は上海でも名門の高校のひとつだが、この校内に「永楽御碑」が保存されている。もともとは、高橋鎮沿海にあったもので、明代永楽年間15世紀に建立されたものが移築されてきた。
実は、昔から高橋沿海は船の要衝で、沖合いには「宝山」と呼ばれる人工島があり、そこに昼間は煙を、夜は明かりをともす灯台が設置された。「宝山」と呼ばれたのも、この島には木々が茂っていてそのように見えたからだそうだ。ここに明代の第三代皇帝、朱元章の4番目の子供である朱棣が碑を建てた。後にこの島が波に洗われ、崩れそうになったときもかろうじて保存され、現在の中学校の中に保存された。浦東新区の文化財のひとつになっている。
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これもかなり探すのに苦労しました。老宝山 城の城壁楊高北路のまだ先にあります
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また、高橋のまだ北側、ほぼ外高橋保税区の入り口付近になるが、老宝山城と呼ばれる地区がある。実は、ここにも城壁の一部が保存されていて、これも浦東新区の文化財のひとつだ。この城は軍事要塞として1576年に建築されたもの。一時は2千人の軍隊が駐留していたそうだ。ただ、ここも時代の変化とともに波風に洗われ、1669年にはほぼ完全に遺構はなくなっているが、現在残っているのは辛うじてその一部だ。
高橋地区にはいくつか名物の食べ物がある。ひとつは高橋西街に今でも残っている高橋食品廠の作る松餅だ。高橋食品廠はかなりの老舗で、創立は中華民国時代の1920年代初めにさかのぼる。この松餅は、皮がパリパリで、蘇州式の月餅のようなお菓子。でも、あまり脂っこくなく、甘さも控えめでおいしい。
松餅にはいろいろなエピソードが残されていて、たとえば明代に現在の高橋鎮の近くにあった青浦鎮で、一人の女性が、試験を受けるために故郷を去るボーイフレンドに、丹精こめて作ったお菓子がその起源とも言われていて、彼を想うあまり、しっかりと生地を練りこんだために、焼き上がりがパリパリになり、独特の歯ごたえのある皮に仕上がったとか。この青浦鎮は倭寇の襲撃で、なくなってしまったが、この松餅の技術はその後に興った高橋鎮に伝えられたという。
(左)高橋食品廠の直売店 西街にあるのですが、ちょっと見落としやすい
(右)これが松餅 できたてのアツアツでした
高橋では、そのほかに刺繍が有名。昔から高橋の女性の作る刺繍工芸品は有名で、民国時代は、外国人の目に留まり、海外にも多く輸出された。今でも、各国の来賓などに送られるお土産として採用されることもあるようだ。
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これが羊肉麺 ラーメンスープにはほとんど 味がありませんが、肉の塊が個性的なラーメン
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さて、冒頭にも書いたが、浦東地区に住む人ならよく見かける徳興館の小吃店の本店は、実はこの高橋にある。100年あまりの歴史をもつこの小吃店、いかにも国営のレストランといった感じで、サービスもいまひとつなのだが、冬場はこの店の名物である「羊肉麺」はぜひ食べてみたい。
羊肉とは、いわゆるヤギの肉のことで、豚肉と違って肉のキメが細かく、脂身も少ない。八角の香りが食欲を誘い、さらにじっくりと煮詰められた肉の塊が、ほとんど味がついていない麺と絶妙にマッチする。
ラーメンは、スープ式のラーメンとかけ麺とに選択できる。ただし、羊肉がなくなったら売り切れになるので、早めに食べに行こう。
(山之内 淳 中医ドットコム)
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