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〜KONOKの黄山紀行〜
第1日「桃花源の人里、西遞」


西遞 雨である…。

上海の雨は嫌いではないがやはり旅行へ行くときくらいはカラッと晴れてくれたらと思う。風も強くさながら台風でもやって来そうな天気だ。さらに、朝偶然つけたテレビで「昨晩、東方航空の飛行機が胴体着陸を行った」と言うニュースを聞き、今日乗る同会社の飛行機のことを考えると相当に気分は重い。

タクシーに乗り込み空港へと急ぐ。フライトが朝の7:15ととてつもなく早いにも関わらず、待ち合い室にはすでにたくさんの人で埋め尽くされていた。しかもほとんどが外国人である。世界遺産にも指定されている黄山のその勇姿を一目見ようと毎年世界各国や中国国内から多くの人が訪れる。1979年に故ケ小平(当時七十五歳)がその山を登ったときに「こんな立派な山はもっと世の人に知らせなければならない」という一言から本格的に観光開発やPRを開始されたと言われている。しかし、今回の旅行はケ小平のこの言葉とはあまり関係ない所にある。黄山一帯は黄山以外にも中国民間八大建築法の一つである徽派という独特な屋根を持つ旧家が多数残っていることでも有名であり、今回の旅行の主要目的はその黄山西南部(黒多)県(イケン)とその周辺を回ることである。 (黒多)県(イケン)は面積858k・、人口は10万人余り、その歴史は二千年以上に及ぶ。もともと黄山を(黒多)山と呼んだことからその名がつけられたと言われている。気候温暖、風光明媚で地理的に外部との交通が封鎖され、長期にわたり戦火を免れてきた。それが幸いし現在でも明清旧家3000余りが残っている。

上海から黄山までは飛行機で約40分、機内でりんごジュースとピーナツが配られると到着である。空港は小さくいかにも田舎の空港といった感じで、飛行機を降りると乗客は歩いて出口へと向かう。乗客の多くは黄山を目的としているらしく山登りの格好に大きなカメラをぶら下げていた。中に日本の大手旅行代理店の添乗員らしき人が黒のスーツにベネトンのバックという格好をしていたが、これは黄山には全く不釣り合いである。

空港を出てタクシー乗り場に向う。ここから黄山の麓、(黒多)県までは約75キロ、タクシーで200元の距離であるが、自分一人で出すにはどうにも高すぎるので黄山へ向かう相乗り客を待つことにする。しかしいくら待てども個人客が見つからない。最後の貸し切りバスが出た時はじめて、上海から個人で来ているのは私だけであることに知った。ついていない…。

仕方なく、タクシー乗り場の係員と値段交渉を始める。激しい交渉のすえ結局120元で話しがつき、いざ係員がタクシーの運転手達に120元での希望者を聞くが誰も手を挙げない。係員はすでに150元での交渉を始めている。それでも希望者が見つからない。もう駄目かとあきらめたころ、髭を生やした気の弱そうな運転手がそっと手を挙げた。再度料金を確認し車に乗り込む。聞けば以前は解放軍の兵士やトラック運転手、旅行ガイドなど職歴豊富である。今回の旅行の目的を話すと彼はそれならばと (黒多)県(イケン)の中でも特に西遞を勧めてくれた。現在は観光地としての整備が進められているが、未だ外国人には解放されておらず、観光をしたい場合には現地公安の許可が必要である。

西遞2車は収穫を迎えた徽州の野を西遞へ向かい走り始めた。道路では農民が忙しく麦を並べ、その脇の川では水牛がのんびりと水浴びをしていた。そこに続く風景はどこか懐かしく一時間前に上海にいたことをすっかり忘れさせてくれた。そんな道を一時間ばかり走った後山道へと入って行く。渓流沿いに丘に囲まれた道をゆっくりと進む。両脇の山の斜面には竹林が形成されており中国的である。その途切れ途切れに現地の人が植えたのだろう茶の木も見え隠れする。こんな和やかな風景を見ているとなるほどここが桃花郷の里であることを想像させる。西遞村はそんな山道が開けた平地の中にあった。収穫を迎えた金色の田に囲まれ黄金郷のようにも見える。

西遞3 入口で25元の入場券を買う。ある程度人数が集まるとガイドが案内をしてくれる。村自体が塀で囲まれているため一つの城のようである。白壁に黒瓦。徽派の独特な屋根が出迎えてくれる。西遞は北宋の初めに形成され、2k・の中に約300もの明清時代の集合旧家が残されている。最盛期にはこの小さな町に約一万人の人が生活していたが現在では3000人ほどになっているという。町には水路が張り巡らせており大変機能的に作られている。さらに家の中には地下水路を利用したエアコンまであった。家はスペースを無駄にすることなく作られ、特に採光建築技術には目を見張るものがある。また扉の彫刻は一枚の板を切り抜くことによって作られた見事なものである。裕福だったであろう街の何軒かの家には主(あるじ)を忍ぶように多くの妾といっしょに描かれている掛け軸が飾ってあった。聞けば、彼らの子孫はすでにここにはいないとのこと。ここ西遞の多くの金持ちは文革が始まる少し前に海外に移住してしまった。そして現在は文化遺産の管理という観点から村人が住んでいるとのことであった。時代の流れは桃花源の里にも大きな変化を与えていた。古き良き中国の面影を十分に満喫した私はタクシーの運転手の勧めのままに黄山を目指し車に乗り込んだ。

ホテルも決めていなかった私はまず宿を確保せねばならなかった。一泊最高300元までしか出す気はない。運転手がいろいろとホテルを回り探してくれるが、治安のいいところはどこも高い。結局3星クラスのホテルで言い値580元のところを400元に値切って泊まることにする。予算を100元もオーバーである。選択の理由はホテルから明日「黄山一日ツアー」が100元で参加できることとフロント小姐の笑顔であった。タクシーの運転手とは明後日の朝に硯(すずり)で有名な歙県(たんけい)に再び旧家を見に行く約束をし別れる。

この日はまだ日も高かかったため、恋人の谷と言われる「翡翠谷」やサルの日中共同研究所もある「猴源」などにも足を延ばしてみる。ヘトヘトに疲れホテルに戻りベットでうとうとしているとフロントから「明日の黄山ツアーは参加者が満たないため中止になった。」という電話が入った。一人の場合は送迎ガイド付きで最低で300元もするという。冗談ではない。フロントと交渉したすえ、私はホテル総経理の親友ということにしてもらい貸し切りツアーのバスに便乗しロープウェー駅まで行きその後は自力で黄山を回ることになってしまった。

時計を見ると八時である。食事もとっておらず気晴らしを兼ね外に出ようとするとすでに雨が降りはじめていた。仕方なく部屋に戻り、朝、ローソンで買ってきたパンをかじり、明日雨が降らないことを願ってベットに潜り込んだ。

第2日「迷山、黄山」に続く

KONOK

(編集注:本稿は1998年9月に本サイトに掲載されました)

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