TOP連載中国で死ぬということ

     


第2回  別れーある日突然やってくる②


  電話を切るときに背後から娘の視線を感じていた。でもとっさに「死」についてオブラートに包みつつ、幼稚園生が納得でき、かつ突然父を失う、という出来事を乗り越えられるようなうまい説明をする気力も、余裕もなかった。とにかく普段の顔にもどり、「あのね、お父ちゃん、お酒の飲みすぎで入院したんだって」(この嘘でのちのち大変苦労することになる。それはまた後日。)と話すだけで精一杯だった。その後何か異変を察して黙り込んだ娘(普段だったら「何で?」「どうして?」「それで?」としつこく聞いてくる)の顔をまともにみることは出来ず、近所に住んでいる私の両親に娘を預かってくれるよう頼み、荷造りをはじめた。
 大連、大連だから、そう、寒いんだ。とにかく着替えをつっこみ、パスポートを用意した。冷静沈着な水星人(細木数子の六占星術)とはいえやはり動転はしていたようで、結構忘れ物をしていたことに後から気づく。しかしこんなときでも化粧道具は一つも忘れていなかった。女だ。
 荷造りしながらも私の頭を駆け巡っていたのは「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん…私は悪い奥さんだった…」という夫へのお詫びの言葉だった。上海から帰国して一年、本当に自分を日本の生活に慣らすだけで精一杯だった。上海ではアイさん(お手伝いさん)を雇い、子供を現地の幼稚園に通わせていた私は、朝食を食べたら、自分が片付けないことにはいつまでたってもテーブルの上には皿がのったまま、洗濯物を干したら、自分でしまわないことにはいつまでも外に干したまま、日本の幼稚園は子供が行ったと思ったらすぐ帰ってくる…ということを体で覚えるまで一年かかったのだ。いや、私の場合一年ではまだ完全に体得してはいなかった。その間、夫のことはもう本当にほったらかし、「大人なんだから自分でなんとかして」という態度が全身から放たれていたことだろう。それでもようやく一年たち、これからなんとか体勢をたてなおし、夫にも優しくする気持ちの余裕が出始めてきたところだったのに…。これからだったのに…。
 ただ1つほっとしたのは出張を笑顔で見送り、昨夜電話をいれていたことだ。出発まで風邪をひいており、その割にはしっかり養生せず、家でだらだらしている夫にいらいらし、「早く治しなよ!ちゃんと寝てればなおるのにだらっだらテレビなんか観てないでよ!」などと小言を言っていたが、朝にはとにかく笑顔で送れたし、昨晩の電話では優しい言葉の一つもかけた。最後にかけた言葉が怒りや小言だったら、後でどれだけ後悔しただろう…。人間関係、どの瞬間が最後になるかもしれない、大事にしなければいけない、というのはこのとき痛感した。夫が目の前からいなくなることなど想像もしていなかった私は「いつか優しくしよう」「いつか支えてあげよう」などとどこかで思っていた気がする。いつでもできることだと思って先に延ばしていた。
 夫の会社からは次々と連絡が入り、具体的な指示が入った。成田からの大連便には間に合わないため、上海経由で行くことになった。夫の会社からすでに他の地方から上司二人が向かってくれており、上海からもスタッフが向かってくれているとのこと。また他に二人の東京の社員が私に付き添ってくれることになった。またこのときまでに夫の死が、殺人や事故によるものではなく、どうも心筋梗塞か脳溢血、脳梗塞のような類だという情報が入ってきていた。

 

 



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